認識論とは何か 第二章
認識というものは普通の現象と違った処を持っている。認識の現象は勿論一つの人間的事実であるが、少なくとも正しい認識と正しくない認識とが、区別されている。そして正しい認識こそが認識であって、正しくない認識は認識でありながら本当は認識ではない、とされる。処で認識は正しくあるべきものだが、事実上常に正しいとは云えない。或いは認識はいつも正しいと考えられている、主観的にはいつも正しい認識しかないかも知れない。だが客観的にはそれが必ずしも正しいということにはならぬ。
こんなことは誰でもが嫌程知っていることなのだが、併しここにすでに、認識についての主観と客観との関係、つまり意識と意識外との関係という根本問題が織り込まれている。意識的には正しい認識の心算が、意識主観を離れて見ると、意外にも正しくないかも知れぬということは、認識というものの計り知るべからざる謎を提出する。――だがそれだけではない。人間はいつも正直であるとは限らない。或る必要があって不正直になるということも計算に入れなくては、認識の正しい正しくないを切実に検討することは出来ぬ。意識主観の知恵が足りないばかりが、不正な認識の原因ではない。知恵の有り過ぎることが却って不正な認識の源泉ともなる。人間が意識的に嘘をつくとしたら、認識の正不正は一体どんなに複雑な問題になるか知れない。更に、本当に嘘をつく心算でなくても、半ば意識的に嘘をつくという状態も亦、不健康な精神とばかり云うことが出来ない。すると問題は益々複雑となって来る。――かくて主観と客観との問題にからんで、認識に於ける真理=真実と虚偽との関係が、意外に錯雑した難問となって来る。
真理と虚偽との関係或いは寧ろ連関は、元来極めて弁証法的なものだ。どういう内容が真理で、どういう内容が虚偽かというようなことを、機械的な尺度で決めて了うことは決して出来ない。それに、大きな虚偽や誤謬は通過しなければ、真理の奥行きは却って判らない、とも考えられる。真理はただの肯定ではなくて、真理の否定の否定なのだ。肯定が否定によって媒介されて初めて本当の肯定となるということが、真理の一般的な本性なのである。でこう考えて来ると、真理というものは真理と虚偽との或る何等かの活きた連関そのものの内にあると云った方が、当っているだろう。虚偽から絶対的に純粋な現実的真理などはないのである。――処で、認識とはこういう「真理」の認識以外の何物でもなかったのだ。
意識の問題は後にしよう。今真理なるものに就いて、その一般的な性質を検討しなければならぬ。但し私は今、必ずしも真理を語ろうとするのではない、真理という観念が何であるかを述べるのである。認識論の仕事は、或る一定の真理を提唱することではなくて、まず真理の観念を検討することであり、次によって以て真理を発見する道を開拓することになるのだから。